昭和51年03月02日 朝の御理解
御理解 第24節
「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」
その気になれ、と言う事だと思うですね。その気に成ると言うこと、ね。ん「その身から打ち込んでの真の信心をせよ」と。私は今朝御祈念中に竹トンボをこう、丁度拝んでおるような形で、とこをひねる所を頂いた。とこをひねると同時に、さぁっと竹トンボが上に上がる。こうひねりさえすれば上に上がるごとなっとる竹トンボというのは。ね、ならこれを、まぁ拝むと言う様な感じで頂いたんですけれども、ひねると言う事も、ただひねると言う事は、私は練り出すと言う事だという風に思うですね。
しかもここにあんなら、「その身から打ち込んでの真の信心」とあるのですから。ね、いわゆる、その真の信心を練り出さにゃいかんのです。ね、しかも力を入れなければ、ただなら、トンボの足のところを(ストロー?)とこうしただけじゃどう、あがりゃしませんよね。ダーとこの勢いです。だらっと信心した信心では駄目です。矢張りそれこそ線香の火じゃないけれども、一本の線香でもよい熱っというくらいなの、信心じゃなからにゃつまらんです。
ぼんやりとした信心、それこそ千匹の蛍を集めたとてもです、ぼんやり明るくはなっても、神の裏表をつき貫くといったようなことにはならない。ね、そこん所がです所謂その気にならなければ、参りゃ何時かおかげ頂くじゃろうと。あ今夜お月次祭ばってん、まぁ今日はご無礼しようと。ね。結局です信心はもう愈々、その気になってしかもその身から打ち込んでの、真の信心でなからなければいけんです。しかもそれがです、なら勢をそろえると言う事になりますと、愈々力を発揮します。
そういう意味で今合楽での大祓い信行と言う様な事の徹底と言う事は、素晴らしい事ですね。家族中の者が大祓い信行に取り組む。遠方にいっとる子供にもいうならば、兄弟にも、ね、親親子同盟または夫婦同盟。ね、兄弟同盟と言った様にです、一つの同盟を結んで朝の何時、夜の何時に大祓い何巻というようにです、時間を切って例えば同じ思いに、いうならば、真の信心に励んでいくならばです、これは金光様のご信者としてはもう同然の事として、いわゆる無条件のいうならば大祓い信行。
これはね真の信心とはその事だけではありませんけれども、これは間違いのない真の信心です。無条件ですから真心ですから。ね、神様が成程生き生きとして見える。しかもね、家族勢を揃えてというのですから、素晴らしいでしょう。ね。東京におる孫も大阪におる嫁も、ただ今病院に入院中の妹も近所に嫁っておる娘も。と言う様にそれぞれの時間にあわせて御祈念をされると。こりゃ熊谷さんの話です。そこから喜びが湧いてこないはずもないし、おかげにならないはずもない。ね、
そこん所はいうならば、勢をそろえてと言う事です。何か大きな神願を立てる。どうでもおかげを受けなきゃならないと。言う様な事であればあるほどに、そういう真の信心に打ち込んでそれを、ね、しかも五人よりも十人と力を合わせてその事を、いのらせて頂くのですから、持ち上がらんはずのものも、おかげの頂けないはずの、おかげも頂けると言う事になります。
昨日ある方がここで、合楽教会大発展をお願い申しますというお届けたあった。ここでは沢山あのお初穂の上に書いちゃるでしょう。左肩に皆合楽教会大発展、じょと言う事の願いを皆さんなさっておられれます。その方は書いてはないけれども、お初をを積んで口でそう言われたんです。どうぞ合楽教会の大発展をお願いいたしますと。そしたらあの御神願成就と言う事を頂いたです。だからそれを続けていくと、合楽教会大発展の御神願成就というと言う事になるです。
私はそれを頂いてから、改めて又有り難いと思いました。合楽教会が大発展と言う事はね、そのまま神様の願いであり、御神願であると言う事です。ね、よいですか。合楽教会大発展の願いと言う事がです、合楽教会これをただ、合楽教会が発展しますように、と自分が願っておるようですけれども、実をいうたら合楽教会大発展の御神願が成就致します様にという願いになって来る時どう言う事になるでしょうかね。素晴らしい偉大な祈りであり、偉大な願いと言う事になると同じにです。
合楽教会に御神縁を頂いておる人達もその中に含まれておると言う事になるです。自分の事を願っておる事と同じになるんです。信心がいよいよ真の信心、一路一途に進んでいく所のおかげ。合楽教会大発展の御神願御成就と言う事に、例えばこれからの祈りはならなければならん事になります。そのそれはならそのまま、教団の発展と言う事にもなりゃ、合楽教会が大発展をとげて、いうなら世界つつうらうらに、出社が出来るようなおかげになったらです、ね。
それこそ世界総氏子身の上安全世界真の平和をと、今日三代金光様が祈っておられたという事でございますが。ね、その事にいわゆる世界のいうならば発展にも、総氏子の身の上安全にも繋がる。勿論合楽教会大発展と言う事は、そのまま教団の発展にも繋がるわけです。そしてその合楽教会に御神縁を頂いておる私共一人ひとりの、大発展と言う事にもなると言う事を、一つ分からなきゃいけません。ね、皆さん一人ひとりが発展しなかったら、合楽教会は発展しませんのですよ。
いや皆さんが本当に力を合わせなさらなければ、しかも只前よりましと言った様なもんじゃなくてです、いわゆる力を入れてです、ね、それもね日々さらに練り出し練り出せさせて頂きながらです、それを一生懸命の力をここに渾身の力をもって、これをひねる時です、ね、その竹とんぼが上へ向かってあがっていく道理です。だからこれがね力が入らないと言う事は、だから意味ないです。ね、例えば竹とんぼばこうもっとるとばあんた、こうやっただけじゃ下さえすとっとおつるだけじゃ。ね、
これをです一生懸命にポーンと上に上げる事もなんもいらんです。一生懸命こればひねりさえすりゃ、上に竹とんぼは上がるごとちゃんと出来とると。信心のおかげもです、氏子が真の信心をです、一心にこれを拝んでですか、ね、信心をしてひねっていきゃです、必ずおかげが頂かられんなんごと、そういう仕組みになってるのです。ね、だからおかげの頂けん時、所はまだ信心が足りんのじゃと悟らせてもろうて、練っていかちゃいかん、ね。「わが心からも練り出せ」と仰る。参る拝むだけじゃでけん。ね、
どういう信心をさせて頂いたら、真の信心になるじゃろうかという、いうならば本当の信心を目指させてもろうてのね、ただその身から打ち込んで信心せよ、とは仰ってないもん、「その身から打ち込んでの真の信心をせよ」と仰っておられる。ね。毎日お参りが出来る人は、毎日の中に一生懸命のものがなからにゃいかん。お月次祭だけしかお参り出来んなら、そのお月次祭だけでもそれはいいですけれども、出来んならせめてです、合楽でまぁ一生懸命に皆さんが、ね。
合楽のいうならば今年の、大祓い信行がですの徹底と言う事にあると言われる位ですから、ね、銘々の家で時間を決めて、ご祈念の時間を決めて、それこそ無条件の真心一心をもって、一心不乱に大祓い信行でもあげるくらいな、値打ちあげるくらいな精神がなからなければです、値打ちのある信心とはいえません。ただお願にある時に、お参りしてお願をするだけの信心ではです、例えば今日の信心からは、漏れることになります。先ずはだからその気になる事。
人から誘われてでもお参りをするというのではなくて、その身から打ち込んで、と言う事は、その気になると言う事だと言う事を今日は聞いて頂くと同時にです、ね、「その身から打ち込んでの真の信心」と言う事をです、その身から打ち込むと言う事。ね、一生懸命。しかもそれが自分一人ではない家族中の者が勢を揃えてと言う事になり、それをいうならば偉大にいうならばです、合楽教会大発展の御神願成就。
しかも合楽の信奉者が打って一願となってです、この願いに情熱をかけるならばです、いうならば御神願が、ね、愈々成就して行く事でしょう。御神願が成就していくと言う事は、私共信者信奉者一人ひとりがまた、おかげを頂いて行くと言う事が、その御神願の中にはあるのですから。ね、愈々素晴らしい事になるというわけであります。ね、その身から打ち込む。いわゆるその気になるとイウコト。ね、その気になった積りでおるけれどもです、途中でぐずぐずしておるなら、その気になっていない証拠。その身から打ち込んでない証拠。ですからもう一遍改めて、その気とはどう言う事か。ね、
確かめていよいよその気になる事。ね、しかも打ち込んでの真の信心を目指す。そこを例えば大祓い信行。しかもその大祓い信行は大勢、掛け声でという力を合わせると言う事にもなる。しかもそれを自分又は自分一家だけにとどまらずに、合楽教会大発展の御神願が成就いたしますようにという、願いになる時にいよいよ高度な願いと言う事になりましょう。その高度の願いの中に、神様の一人ひとり氏子助かってくれという願いが込められておるのですから。ね。
私共一人私共一家の上にも、神願が成就してくると言う事になります。ね、私の願いが成就するのじゃない。神願が成就する。そこで今ふんまえておる難儀もです、御神願成就のことのために、今の難儀があるのだ。その難儀は難儀じゃない。それを修行と受けて立たせて貰うと言う所に、値打ちがあるのです。ね、先日から(いわば?)申しますように。苦しいだからそのおかげさえ頂けばよいというて、なら一心の信心しておかげを受けてもです、それはおかげを受けたと言う事だけしかならない。
その難儀を通してです、ね、その難儀を難儀とせずにこれを神願成就のための、いうならば私に求めたもう所の、神様の求めたもう。また私に与えられたそれを修行だと頂く事が一番本当です。そうするおかげではなくて、その修行の成就の時にはお徳がついてきます。力が頂けます。ね。今感じておるその難儀をです、ね、神願成就の事の為の修行と頂くと言う所にです、修行の値打ちはあります。
ただおかげ頂かんならんから修行しよるとじゃ、ね、その修行が弱い小さいものになります。神願成就のための、それが修行だと頂かせて頂いたら、ね、それこそ一人で持ちあがらぬ石でも、ね、大勢掛け声で一度に力を揃えれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらな、持ちあがらんぞと。家内中勢をそろえてと言う所を今日は、教会信者信奉者勢をそろえて、金光教合楽教会大発展の御神願成就を願わせて頂こうじゃないですか。
どうぞ。